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第9話 赤星の帰還

Auteur: いろは杏
last update Date de publication: 2025-11-04 19:00:00

 青野が、驚きと確信を一滴ずつ混ぜたような笑みを口元に載せた、まさにその刹那――窓際で土埃を散らしながら、猛が戻ってきた。

 頬には砂が貼り付き、指の第二関節はうっすら擦りむけている。呼吸は浅く速いが、負傷というほどではない。勢いよく飛び出した数十分前の昂揚は色あせ、代わりに悔しさが表情に滲んでいた。

「くそーっ! やっぱり外にはなかったぞ! いったいどこに消えやがったんだ、あの猫は!」

 校舎二階からの飛び降りも、一階からのよじ登りも、この少年には日常の延長に過ぎない。だが、勢いよく飛び出した数十分前の昂ぶりは萎み、胸中は空振りの悔しさでざらついている。

「あらあら、赤星くん、お帰りなさい。ご苦労様でした――何か収穫はありましたか?」

 青野が労いに少しの皮肉を混ぜて水を向けると、猛はむっとした目で返す。

「るっせぇな――猫はなかったっつうの……外のダストボックスにこんなわけわかんねぇもんが捨てられてただけだったよ」

 彼がポケットから出したのは、指先ほどの小さな滑車と、透明なテグスの束だった。

 偶然という名の贈り物を手のひらに載せたことを、青野は一瞬で理解する。自分たちの仮説を補強する最良の小道具だ。

 僥倖――胸の内でだけ、その言葉を選ぶ。

「笑うんじゃねぇよ! ……で、そっちは何か分かったのかよ?」

 苛立ちと期待が同居した視線が、青野と、その隣で緊張と決意を同時に抱えた白河へ向く。

 周囲からは「戻ってきたぞ、ラストホープの暴走特急」「やっぱり無駄足だったみたいだな」と囁きが飛ぶ。

 耳に刺さる雑音に、猛の悔しさが再燃した。

「ええ、少し進みました。そして、赤星くんのおかげで、推理の信憑性がいっそう高まりました」

 青野が笑みを深め、白河に目配せする。白河は小さく頷き、震えを意志で押さえ込みながらタブレットを差し出した。

「……なんだこれ? 天井の写真……? それに図面?」

 猛の眉間に皺が寄る。画面には、スポットライト用レール端の新しい擦過痕、壁高所の微小な孔、換気ダクトとの位置関係が示されていた。

 白河は喉の奥に残る恐れを飲み込みながら、視線で「ここを見て」と要点を指し示す。

「白河さんの分析では、像は天井裏――あの換気ダクト内に隠されている可能性が高いようです」

 青野が最短の言葉で橋を架ける。

 すると、猛の中で、半信半疑が徐々に納得に傾く。窓の泥跡が演出にすぎないこと、レールと壁とダクトを結ぶ導線が物理的に成り立つこと、そして自分が外で見つけた滑車とテグスが、仮説の輪郭をはっきりさせること。

 さらに、いつも俯いていた白河が真正面から画面を差し出し、静かな意志を宿した眼差しで自分を見ている――その事実が、猛の胸に別種の熱を灯す。自分が走り回っているあいだに、彼女はここまで見ていた。

 青野は畳みかける。問題は確認手段だ。高所、狭所、現場保存の配慮。脚立を運んでも時間がかかり、許可も要る。

 だが――この場に一人、最短でそこに届く人間がいる。

「――赤星くん。君にしかできない仕事です。君のその身体能力で、換気ダクトの内部を確かめてきてくれますか」

 チームとして、初めて明確に彼の力を当てにする言葉だった。頼られることが、猛にとって何よりの燃料になる。戸惑いが一瞬、すぐに闘志へと置き換わる。自分にはこれがある――その自覚が、背筋を伸ばす。

「よっしゃあ! 任せとけ! あんな場所、朝飯前だぜ!」

 周囲の視線も、鬼瓦教官の厳しい眼差しも気に留めず、猛は作業台へ軽やかに跳び乗る。

 壁を蹴り、棚の縁を掴み、重力を斜めに無視するような軌道で駆け上がる。足場にした高所フックを一蹴り、天井梁に指をかけて体を引き上げる一連の動きは、パルクール選手顔負けのアクロバティックさだった。

「なっ……!」

「すげえ……!」

 生徒たちのざわめきが一段高くなる。プロミネンスの轟周平は思わず目を見張り、神楽坂雅もほんのわずかに眉を動かした。

 猛は換気ダクトを前に体勢を整え、その縁と天井梁の二点で身体を支えると、ポケットから小型のペンライトを取り出し、埃っぽい内部を照らす。

 配管、湾曲、暗がり――奥に、布の包みが沈んでいた。

「……あった! 布にくるまれた何かがあるぞ!」

 呼吸を整え、腕を伸ばして慎重に引き寄せる。手に伝わるずしりとした重量。布の口を少し開き、光を差し込む。独特のポーズ、ブロンズの鈍い光沢――『思索する猫』が、そこにいた。

「うおおおおおっ! あったぞーーー!! 本当にここにあった!!」

 歓喜が天井から床へ降り注ぐ。室内の空気が一斉に吸い込まれ、そして吐き出される。

 青野は満足げに頷き、白河は胸元で小さく拳を握った。自分の線が、像という『モノ』に到達したという実感が、静かな高揚として彼女の頬を温める。

 鬼瓦教官の目にも、厳しさの合間にわずかな感心が滲む。

 像の発見――決定的な証拠が、三人の連携で白日の下に引きずり出された。

 窓の泥跡は演出に過ぎず、天井の導線こそが真の経路だったことを、モノが証明する。ラストホープの物語は、ここで初めて『個の暴走』から『チームの解』に切り替わった。

 次に問われるのは、この仕掛けを事前に用意し、扱えた者は誰か――その追及は、猫を抱いた歓声が静まった後に続く。

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